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Saturday, January 28, 2017

町づくりと東洋医学

葉山町役場に「町民の意見」を募集する箱を置いてある。町長や町議会に伝えたい事あれば=意見、
そこに投函する事出来る。
先日大分前から考えた「意見」を表明した。お返事は期待していなが・・・
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- 町づくりと東洋医学 -
題名の繋がりは通常連想されるものではないでしょう。
しかし、東洋医学は二千年余りの間に蓄積された東洋の知恵の宝庫でもあり、日本では過去千五百年の間国民の健康維持に貢献して来ました。そして一般人は勘違いする傾向があります:東洋「医学」と名づけられているものは「医学(あくまで現代用語)」に関するものだと思われるでしょう。
東洋医学は東洋全体の思想や概念の一部であり、この地域の出来事、統治、生活、指導(現代風:教育)などに合った知恵で人々の暮らしを助けようとするものです。
町づくりとの関係は、「町」も絶えず変化する一種の生態系だと考えれば見えてくるでしょう。

 
そのような立場から現在この町に28年住んでいる私はこの町=生態系が大いに病んでいると思います。小生は日本人が自分の素晴らしい文化、歴史、伝統をもう少し大切にし、何世紀の間に築きあげられた知恵を町づくりに応用される事を心から願っています。

 
無論、私は無知な南蛮人に過ぎませんので、日本の遺産の良さを伝えたり、薦めたりするのは日本人が適任でしょう。本来私は論ずるものでもありませんが、「医」の意味を僅かに触れたいと思います。医→つまり医者/医療に関して「説文解字」(世界初の漢字字典)にある:「医は病を治す工である」が大好きな定義です。医は経験と知恵を利用している職人技です。
又、「医」に携わる人なら、現代では通常「先生」と呼ばれます。通常日本語では「先に生まれた」のような見方されることは多いでしょうが、個人的に「先に生きる」と考えています。先生はそれについている「生徒」に対して模範を示す者だと信じたい。
その職業のランクについて広辞苑が次の文章を掲載しています:「上医は国を医(いや)す[国語晋語八] ;優れた医者は国の疾病である戦乱や弊風を治め除くもので、個人の病気を治すのはその次であるということ。」正に医は町づくりに関わるべき者と示唆しています。
「上医」を理解するには「中医」と「下医」と比較する必要あります:
「上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す」とあります。あるいは:

上医は、いまだ病まざる病を医し、

中医は、病まんと欲するの病を医し、

下医は、すでに病める病を医す。

 
今まで出会った人の内上記のお話が殆ど何方も知らない事何時もとても不思議に思います。

 
是非、この町の「健康=町づくり」を優れている先生(⇒先に生きる→模範を示す存在)に指導(⇒町の「手をとって」進むべき道を一寸程でも案内=導く)して頂けましたら多くの人にとって有益であることを信じます。

 
以上飽くまでも小生の個人的な意見です。
トーマス鍼灸院
Thomas Blasejewicz

Friday, April 3, 2015

肩凝り - 又もや異見

日本では「肩凝り」と言う永遠不滅なものです。しかし、最初からお断りします:私はこの厄介な症状を治す特別な技術も持たないし、説得力ある説明する能力もありません。あるのはただ異端者の個人的意見=異見のみです。しかし、日常の会話を傍聴すると日本人は肩凝りが大好きだとしか思えない。「私はもう30年間ずーっと肩凝りだ」と自慢する人も決して少なくない。
肩凝り ー 先日頻繁に迷信に基づく質問:「外国人には肩凝りないでしょうか」関連でテレビ番組の出演に誘われました。ですが、外国人も肩凝りを訴えます。しかし、日本人の間ではその症状が桁外れほど多い。例のテレビ番組(所さんの日本の出番;私に言わせる出演者はそれぞれ数十秒から2ー3分までしか出なかった為、それぞれの発言は「嘘」ではないにしても、情報が非常に断片的になって、結局肩凝りの正体余計に分からなくなったでしょう。だが、有名なテレビ番組に出演出来たから文句言うものではないとも忠告されました)によると日本人成人の内90%ぐらいは肩凝りを訴えています。
これは可笑しいです!
先ず少し識別する必要あります。「肩凝り」は「病気」ではなく、「症状」です。同一の症状は複数(多数)の原因に由来する可能性があるのは今更に言う必要もありません。しかし、国民の90%は同じ症状を訴える?それは全世界でどこにも見られない現象です。
当然、それ程うまいビジネスチャンス(今頃読者はもうお分かりでしょうが、私は個人的治療をビジネスとして捉える事を批判します)を逃す訳にはいきません。よって、街中に「肩凝り治ります」と掲げている看板が散見され、本屋・新聞の本の広告欄では毎日のように似たようたタイトルが推薦されます。
但し・・・私は知っている限り「肩凝り」の定義がなく、ましてや治療者なら誰でも分かるように「凝る」ってどういうことかもはっきり分かりません。臨床家の常識として「凝る」肩(の筋肉)は柱のような固いもの、普通の状態も、古い雑巾のように張り全くないものまで何でもあります。最初から正体不明な事象なのに、自信満々に「治す」と宣伝するのは・・・臨床家=職人の「職人気質」に反すると思います。
肩凝りに関して一つ大きな要因は筋肉などの体の働きは勿論ですが、「言葉」の影響もあります。つまり、「肩」ってどこ・・・その認識は日本人と外国人の間かなりずれていると思います。それに関して日本人も外国人も「悪く」はありません。言葉の理解・使い方、文化的背景によって決められてしまったからです。
言葉以前の問題として、どうやら日本国民は過去数百年の間に「洗脳」され=条件反射が植え付けられてしまいました。つまり、日本人は:「まともな大人は肩が凝る。肩凝り知らない人は遊んでばかりで暮らしているだろう。」そのような概念は幼稚園で習う歌から始まり、時代劇で見られる座頭市が悪党の殿様の肩を揉んでいる事を経て、現代市場に溢れ出ている「肩凝りグッズ」、湿布薬やサプリメントから判断すれば、然程間違いないでしょう。
それでは簡単に原因と治療に関する個人的な意見を一部延べます。「紙面」が足りなく、私は理解している社会的、文化的、歴史的な要素はとても書ききれません。肩凝りの治し方を知りたければ、方々公で答えが知っていると宣伝する先生に聞いて下さい。

少々原因と治療を触れたい
確実怒られるだろうが、結論を先に言うと:治療法の細かいことを気にする必要なく、ほぼ何でもよいでしょう。
無論整形外科的な内科的な原因で最終的肩凝りが発生する事もあるでしょうが、個人的では肩凝りの大部分(恐らく9割程)が大きく2つの原因によるものだと考えられます:
1) 姿勢
2) ストレス
前者は常に同じ姿勢=例えば猫背するか、或いは長時間/頻繁に同じ動作を繰り返す。後者は人間も動物も同じ:肉体を戦闘準備或いは逃亡の為に準備する。瞬時に。何れも生存のため不可欠。何れも必然的激しい「運動」と伴います。ストレスの原因は肉体的か精神的なものかは体にとって関係ありません。
動物なら生存の戦いの必要性がなくなる(長くても数分間以内!)と、戦闘モードを解除し、通常の安静状態に戻ります。人間は肉体的より精神的なストレスが実際にあるか、或いはあると思い込んでいるからその戦闘モードは何時までも維持します。肉体が激しい運動するために準備されているにも拘らず殆ど動いていません。
それでは肩凝りに苦しむはずです。
解消方法の一つ:実際にしっかり運動すること。その効果の一つは戦闘モードの解除に貢献します。当然:運動は患者本人がするのもで、治療者は一度切りアドバイスすれば良いです。
東洋医学では昔から「病は上にあれば、下を取れ」といわれています。ここでは「下を取れ」とは治療が主に下半身に行うこと。筋肉の問題に由来するより(お言葉ですが)頭でっかちや不十分なストレス処理で肩凝りなどを訴えている患者に対して腹部、腰、脚の経穴を選べばよい。運がよければ「頭でっかち」(→ そのイメージを描いて見て下さい:細い鉛筆(脚)の上に大きな重りを載せ、重心が一番上にあります。安定するはずがありません!)、体のバランス、気の流れなどを説明すると「なるほどね」と納得し、後に行動を少々改善するかもしれません。
前記の細い鉛筆のイメージをもう一度思い出して下さい。体を細い二本の足の上に載せます。したがって ー これは気持ち・気分などと関係なく、冷たい物理学の世界 ー 足の裏が非常に大事です。つまり、足の裏はちょうど車や二輪車のタイヤの役割を果たしています。車屋さんやガソリンスタンドのお兄さんなら誰でも分かる:気圧が足りないと走りは不安定になります。人間は例外ではありません。運動不足の為足の裏の張りが足りなければ、その上に載せている体がグラグラするので、頭、首、肩あたりで一所懸命バランスをとらざるを得ません。年中にやると当然「肩が凝る」でしょう。
従って、上記の何れの場合治療者の役割は患者を「一度だけ」指導すればよい。本来東洋医学的は知恵などは国民の財産ですので、そう言った指導を無料で提供するのは好ましい。
自分の本「トーマス 先生の話を聞いてみませんか」では商品、サービス、知識などを購入薦める事一切なく、無料で出来る事ばかりを少々紹介しています。本自体は無料にできないが、そのほかの話は全部(!)所謂商売に反するから、常に周りから怒られます。
私個人の異見ですと、治療者が「おれは治してやるから、定期的来院して」言うのはやはり邪道です。

最も効果的治療?恐らくcompassion=同情、慈悲でしょう。患者は幾ら限定的な症状=肩凝りを訴えても、飽くまでも「肩凝り」で病んでいる「病人」=人です。その「人」が望んでいるのは部品交換でも、修理でも、錆取りのような「一部位/一術」スタイル処置ではありません。悩みを聞き入れてくれる人の「手当」を求めています。(理学療法類)治療者はそう言う希望を叶える存在であって欲しい。そう言う意味では手技が殆ど何でも良いし、技術の細かい所に然程拘る必要もありません。職人気質の「気」だけを大きく、包容力のあるように持つ事が理想的です。その話は次回で。

Sunday, October 19, 2014

鍼灸と本屋 - スポンサーが必要

馬鹿な私は「商売」と全く理解も出来ないし、治療者としてすべきではないと信じている。

そこで今日(2014/10/19)の読売新聞に載った本と本屋の色々なお話を読んで下記思いが湧いて来た。

来院する患者の多くに、治療中色々なお話をしている内に、その患者にとって役に立つではないかの本を「紹介」する事が頻繁にある。
そして定期的患者に治療院にある本を貸してしまう。(時々帰って来ない事もある・・・)

私個人的も大昔から本屋が大好きだ。無論本を読む事も。
家も治療院も本で溢れて、しまいきれない状態になっている。

しかし、「本屋」と言うイメージが少々異なる。
日本で私は今まで見た本屋はどうも冷たい雰囲気の「販売現場」だ。
ドイツでは(特に小さな町で小さな本屋)そう言う単純な販売現場だけではない。
地域の人々が気楽に顔を合わせる社交現場でもあり、その中に音楽が流れ、気楽にお茶を飲める所もあり、
場合によって、小規模なイベントも行われる。

今日の読売新聞に”減る書店「町に必要」”と言ったヘッドラインを見て:
私もそう思う直感した。

これで小さな夢が生まれた:
鍼灸院を経営しながら、それに付属な「本屋」が出来ればいいなともう。
主にビニールに閉じ込められた新書ではなく、大体私は読んだ、或いは少なくとも目が通した本
を並べ、それぞれの本についてお話が出来、来店客が購入する気になった場合注文する。
こちらの専門としている東洋医学や健康な話題を中心して、話題のある物をディスカッシンの題材できるもの、
大きな画面で電子書籍を閲覧したりして、
蝋燭を灯している無垢の木で出来ている小さなテーブルを囲み、お茶を飲みながらそれぞれの本の話をして・・・

私はやってみたい!

残念ながら私は現在そのような事出来ない。
スポンサーがいればいいですが・・・
どこか空いている(出来れば和式)な家(空いている家はどんどん増えているようなことも新聞に書いてあった)があれば・・・

そのような夢が只今生まれたばかりで、何年掛けて実現に向けて努力してみたい。